12月14日(土)に開催する「明治安田 presents 中村憲剛 引退試合」の前に開催するエキシビションマッチに出場する「ケンゴフレンズ」参加選手が決定しましたので、お知らせいたします。
エキシビションマッチは、先日発表した「なでしこフレンズ」との対決を予定しており、「ケンゴフレンズ」は、中村憲剛と縁とゆかりのあるメンバーで編成しています。追加の選手につきましては、順次お知らせいたします。また、参加メンバー、チーム構成につきましては、コンディション都合等により、予告なく変更が生じる可能性もございますので、予めご了承ください。
GAKU-MC:共通の知人の紹介で交流
中西哲生:川崎フロンターレOBとして交流、同じ14番の系譜
ラモス瑠偉:中村憲剛が憧れていたレジェンド選手
※敬称略・五十音順
東京都出身。アコースティックギターを弾きながらラップする日本ヒップホップ界のリビングレジェンド。1992年「EAST END」を結成。1994年に「EASTEND×YURI」の『DA.YO.NE』が大ヒットを記録。1999年からソロ活動を開始。2011年に自主レーベル「Rap+Entertainment」を設立。翌年には音楽とキャンドルの灯りを届ける復興活動「akalitolive(アカリトライブ)」を全国各地で行う。同年、音楽とフットボールの融合団体「MIFA(Music Interact Football for All)」を設立。2013年、桜井和寿(Mr.Children)とともに「ウカスカジー」を結成、日本サッカー協会公認日本代表応援ソングを制作。
音楽の世界ではボーカリスト(僕の場合はラップですが)、はとにかくみなさんのココロを動かすためにがむしゃらに熱量もって伝える。歌う。叫ぶ。ただメンバー全員がそれではショーが成立しません。情熱の中に冷静さを兼ね備え、ショー全体を俯瞰してコントロールできるバンドマスターの存在が不可欠です。もしも中村憲剛 がミュージシャンだったら、そのバンドの歌い手は本当に気持ちよくライブができるんだろうな。現役時代の彼のプレーを見ながら、いつもそんなことを考えていました。現役お疲れ様でした。今日は彼の一ファンとしてサッカー界屈指のバンドマスターの配球を楽しみたいと思います。今後どうするんだろう?指導者や解説もきっと素敵ですが、ミュージシャンという選択肢も入れてほしいとちょこっと思っています。『こっちの世界にいつかおいでよ』そんな気持ちもありますが、ナニハトモアレ本日はお誘いありがとうございます。
ガクエムシー
愛知県出身。1992年、同志社大学経済学部卒業後、1992~1996年 Jリーグ名古屋グランパスエイトに所属。1995年シーズンには、アーセン・ベンゲル監督の下で天皇杯制覇。1997年に川崎フロンターレに移籍、キャプテンを務め、2000年にJ1昇格を果たす。2000年いっぱいで、現役引退。2008年より(公財)日本サッカー協会特任理事、2016年より同参与、2021年退任。2023年より筑波大学蹴球部テクニカルアドバイザー就任。
中村憲剛さんとは現役がスタートした頃からの付き合いで、もう20年以上になります。現役スタートから現役引退を見届けた人間としては、今回の引退試合は感慨深いものがあります。引退セレモニーの時はまさにコロナ禍。この状況では引退試合は難しいな、と感じました。しかし今回、改めて引退試合が開催されると知った時は、ついにやれるタイミングがやってきたんだ、という想いと同時に、どういったカタチになるんだろうか、果たして中村憲剛さんはどれくらい動けるのだろうか、という意識にすぐに変わりました。ただ先日の引退試合記者会見の司会をさせて頂きましたが、まさにフロンターレ、まさに中村憲剛さんというカタチになりそうで、当日を本当に楽しみにしています。皆さん、等々力でお会いしましょう。そして中村憲剛さんのピッチ内での最後の勇姿を、しっかりと目に焼きつけてください。
中西哲生
1957年2月9日 ブラジル リオデジャネイロ生まれ。1977年に来日、読売クラブでプレーする。1983年にJSL初優勝、翌年の連覇に大きな役割を果たした。その後通算5回の優勝に貢献、1979年、83年には得点王、79年、89/90、90/91シーズンにはアシスト王にも輝いた。JSL2部6試合出場5得点(1977年)、JSL1部210試合出場69得点(1978~1992年)。1992年のJリーグカップ、1993年にスタートしたJリーグでは、ヴェルディ川崎で引き続きプレー。1993年、94年にはリーグ優勝、リーグカップ勝者となり、94年チャンピオンシップでは芸術的なループシュートを決めた。1989年に日本国籍を取得し日本代表となり、横山謙三監督の下、91年キリンカップで優勝。92年にはハンス・オフト監督の下、ダイナスティカップ中国大会、アジアカップ広島大会で初優勝に貢献した。94年アメリカ・ワールドカップの予選でも中心選手としてプレーし、出場まであと一歩に迫ったが「ドーハの悲劇」と呼ばれる無念の結果に終わった。1997年にはビーチサッカー日本選抜を編成し、ビーチサッカー世界選手権(リオデジャネイロ)に出場。1999年にはフットサル日本代表選手として第1回AFCフットサル選手権に出場。現役引退後は、ビーチサッカー日本代表の監督として指揮を執り(2005年、2009~13年、2018年~)、AFCビーチサッカー選手権優勝3回、準優勝1回、FIFAビーチサッカーワールドカップ4位2回、ベスト8に2度導いた。Jクラブの東京ヴェルディ1969(2007年J1昇格)、FC岐阜でも監督を務めた。1998年Jリーグ功労選手賞。2018年日本サッカー殿堂掲額者。
中村憲剛引退試合エキシビジョンマッチ出場のお声をかけていただきありがとうございます。中村憲剛選手の歴史は、輝かしい川崎フロンターレの歴史といっても過言ではありません。ピッチでの質の高いプレーはもちろんのこと、ピッチの外でもプロサッカー選手としての手本となり、あなたが愛する川崎フロンターレだけでなく、Jリーグ、日本サッカー界全体、そして子供たちに希望を与えていたことは、この先も世代を越えて語り継がれていくことでしょう。12月14日(土)中村憲剛引退試合が、サッカーをとおしてたくさんの人を笑顔にし、サッカーの魅力を表現し続けたプロサッカー選手・中村憲剛の輝かしい歴史を振り返りながら、今後の指導者としての活躍を期待する仲間、ファン、サポーターのみなさんとの素敵な時間になると確信しています。私も選手としてたくさんの思い出がある大好きな等々力で、あなたと一緒にプレーできることを心から楽しみにしています。
ラモス瑠偉